2007年総括

 皆さん、2007年はどんな年でしたでしょうか?Fieldは…
 思いつくままに2007年をまとめてみましょう。(尚、写真と記事は関係がありませんので悪しからず)
(2007.12.30 十勝川

 お仕事…本業は印刷屋である。会社自体は総業54年目を迎えるが、私が入社してから25年、代表になってから丸4年になる。日本経済の不況が底を打ち、穏やかに上昇中と言われる中、北海道の景気は依然と冷え切ったまま。一零細企業の代表としては、この地方都市に好況の兆しが見えるのはいつのことかと待ちわびる一方、じっと待っている訳にもいかず、あれこれと手を打ってはいるが、その効果 は未だ明確に現れてはいない。
 特に驚異を感じるのは、地元の老舗店の衰退である。既に有る程度の規模に成長した企業はあらゆる影響が大きいために、例え経営が悪化しても周囲が簡単に見捨てることはないが、零細企業・中堅企業の業績が悪化しても、誰も救いの手を差し延べる者は居ない。米は米屋・魚は魚屋・本は本屋という時代は過ぎ去り、取りあえずコンビニ、そこに無ければスーパーで、生活の基本的なお買い物は、ほぼこと足りてしまう時代になった。そこに務めるのは地元の人間ではあるが、ほとんどがパートとアルバイト。そして、そこで上がる収益は全て中央に吸い取られ、地方の地元経済はますます衰退するばかりである。そんな時代の中で、今年も当社の取引先が、一つ、また一つと消えていった。
  当社にとってのもう一つの驚異は、市の教育にかける予算の削減である。当社は何故か学校さんに対する依存度が高い。PTA広報紙、行事予定表、学校要覧、研究紀要、通 知票、各種賞状、身分証明書、卒業証書、文集などであるが、近年予算の削減が続き、当市が子ども一人にかける予算は、夕張市より少ないと言われるまでになった。通 知票・賞状・卒業証書などは、今や学校のプリンタで出力されているのをご存知だろうか?何だか貰う方も有難味が無いように思うのは私だけかなぁ?

 

(2007.12.30 十勝川

 長男…前章をお読みの方は既にお分かりのことと思うが、6月2日に横浜で式を挙げ、所帯を持った。そして、そのまま埼玉 県の住人になった。当社3代目予定者が居なくなってしまった訳であるが、私自身はさほどショックとも思ってはいない。しかし、先代にとってはどうなんだろうと、少し気にはなっている。
 先代は昭和天皇の如く半世紀近くに渡り君臨(?)していたので、私はワンポイント・リリーフかなぁと、どこかで思っていた節もあるが、そうも言ってられない状況になった。ただ、これで本当に自分自身の考えだけで、思ったような経営が出来るという開放感を味わっているのも事実だ。
 え?ところで会社の業績は?って??まーボチボチでんなぁ(笑)このご時世、この業種で“ボチボチ…”と言ってられるのは、有り難いことではあります。皆様に感謝・多謝・謝謝!(でもさぁ〜、働いている時間の割には給料安いなぁ…ブツブツ)

 

(2007.12.30 十勝川

 …この秋以降、たて続けに知人・恩師が亡くなった。その1人がT先生。T先生は私の父の知人の甥で、釧路の教育大学に在籍中から、帰省時には我が家へ遊びに来ることがあった。そして、時々私の勉強を見てくれていた。当時私は柏小学校に通 っていた。そのT先生が卒業後赴任した先が偶然にも柏小学校であった。当時の柏小学校は1800人規模のマンモス校で、私のクラス担任にはならなかったが、その後もよく遊びに連れて行ってもらった。初めての洋画、初めての喫茶店…と私が中学になっても、相手をして頂き、様々な影響を受けた恩師の一人と思っている。(享年66才)
 柏小を卒業後、私は第六中学校へと進んだ。そこの卒業担任がT先生(あら、同じイニシャルだわ)という音楽の先生だった。当時私は生物クラブの部長であったが、この先生が吹奏楽部の助っ人をやって欲しいと言う。音楽の成績は、お前がトップだからとおだてられたこともあったが、その吹奏楽部の顧問が、先程の柏小のT先生の教育大時代からの親友だったこともあって断ることが出来なかった。この音楽のT先生には、忘れられない想い出がある。実は一度だけ殴られた。教科担任が病欠で自習時間だった。級友が、“この問題の解き方が分からないので、教えて欲しい”というので、その友人の机の脇に立ち、解説をしている時に、いきなりその先生が教室に入ってきて、理由を聞くこともなく私を殴った。私は自分の机上の教材をカバンに放り込み、無言で教室を出てそのまま帰宅した。翌朝T先生は、私の前で深々と頭を下げた。人間味のある先生だと感じる一方で、抗議をしてくれた級友達にも感謝した。その日帰宅すると、私の親にも謝罪の電話があったと聞いた。(享年74才)
 3日前の事である。市内の同業の会社社長Iさんが亡くなった。その社長とは特に深い付き合いは無かったが、その会社の創業には、私の父の叔父が関わっていたし、父自身もその会社に勤め、また代表も務めたこともあるという縁のある会社だった。 Iさんの前の社長はNさんと云い、私が子どもの時代から知っている方だった。私がこの業界に入ってからは、時折一緒に酒を酌み交わすこともあった。そのNさんは、経営難を苦に、10年程前自ら命を絶った。その後、この業界とは全く畑違いのIさんが取締役会で選任されたのだが、彼もまたNさんと同じ道を選んでしまったようだ。しかも、彼が見つかったのは、このField Noteでも、しばしば紹介させて頂いている場所だった。Iさんには、まだ高校生のお子さんもいらっしゃると聞いている。Fieldにとっては、2重3重にショックな事件だった。心からご冥福をお祈りしたい。合掌

 

(2007.12.30 十勝川

 生物を最後に待っているのは死である。死ぬ ために生きていると極論する方も居る。永久の命なんてものは無いのだから、確かにそうかも知れない。でも、Fieldは死を前提に生きてはいない。明日も明後日も、そして来年も自分自身は存在しているという前提で生きている。例え医者に“明日までの命です”と言われても、Fieldは今日も飯を食う、酒を飲む、写 真も撮る。どうせ明日までの命なんだから、それは無駄 な行為だ等とは思わない。(暗い話でスミマセン!難しい話も、もう止めましょう)
  カメラ…ミノルタのカメラが不調なことは、今年のField Noteに幾度か報告させていただいたので、省略するが、その後に購入したSONYのα100は画素数こそ1,000万画素と高密度だが、Fieldが求めるカメラとは似て非なるものと感じていた。“誰もがいい写 真を撮れる”というコンセプトだそうで、確かにとりあえず撮れる。ただ、やはり家電メーカーとカメラ・メーカーの違いが、このコンセプトにも明確に現れている気がする。つまりカメラマン(自称)の求める良いカメラは“良い写 真が撮れるカメラ”ではなく、カメラマンの“作画意図を反映してくれるカメラ”なのであって、その写 真が良いと感じるかどうかは結果でしかない。昨今笑顔になるとシャッターが切れる…なんていうおバカなカメラが売り出されているが、何故カメラの前では笑顔でなければいけないのよ?
 そんなこんなで、眠ってしまったα7digitalを何とか目覚めさそうと、カメラのキタムラに持ち込んでみた。“修理は自社でされますか?”と聞いたら、修理専門業者に委託するとのこと、そこで手に負えなければメーカーに出すこともあるでしょうとの返事。とにかく症状を詳細に伝え、3度メーカーに見てもらっても直らなかったカメラだということも付け加えた。1週間後に電話があった。修理個所が特定され、修理代金はは2万3千円だという。SONYと最後のやりとりでは、最終的に、電源ユニットを交換するので4万数千円頂きたいと言われていたので少し驚いた。更に1週間後、α7は手許に戻ってきた。その後多忙で、ようやく今日フィールドに持ち出してテストしてみた。どこにも違和感は無く、ようやくα7が復活したと感じている。やー長かったなぁ、ここまで…

 

(2007.12.30 十勝川

 社会活動…リンゴシジミの保護活動も終わったし、写 真展もしばらくやってないし、O小学校で講義をやったくらいで低調でしたね〜。そのO小学校の校長さんから、国際理解教育に携わる小中学校の先生方の前で講演をして欲しいとの打診が有りましたので、正式なお話が来たら、お引き受けしようかなぁと考えてはいます。校長さんが希望されているのは、台湾のお話なんですが、ルチアーノのお話も面 白いと思うので思案中ではあります。
 ところで、先月会社の紙倉庫を整理していたら、大量の水彩画用紙が出てきました。母校に立ち寄ったときに美術の先生にお話ししたら、使いますとのことだったので、寄贈させていただきました。また、当社では心身障害児者作品即売展示会のポスターとチラシをお引き受けしています。そしてその展示会が45周年を迎え、これまでの活動の記録を小冊子にして残したいとのお話がありました。こうした公私の“公”の部分でも、何かお役に立てることがあれば、積極的に貢献していきたいと考えています。(何か会社のPRっぽいなぁゴメン!)
 社会に恩返ししながら…なんて考え始めるのはやっぱ齢のせい?うーん確かに!若い頃はそんなこと考えてなかったもんあぁ。素直に認めちゃう。

 

(2007.12.30 十勝川

 天候…春の蝶の発生はやや遅めではあったが、順調に推移するかと思えた。しかし、暑い夏との気象庁の予測とFieldの期待を裏切るかのような低温と、週末毎の雨が続いた。ところがお盆を境に様子が一変した。まるで帳尻合わせをするかのように35度を超える日が幾日も続いたのだ。
 秋以降も穏やかに推移し、冬の訪れが遅かったのは、やはり温暖化の影響かと思う。それを裏付けるかのように、12月29日十勝地方に大雪が降り帯広市では50cm程の積雪になった。そして30日の気温は5度。以前にも幾度かField Noteに記させていただいたが、Fieldの住む十勝地方には、冬型の気圧配置で雪が降ることはまず無い。しかも、12月末ににプラス気温など過去に記憶がない。
 寒いけれど雪が少ないのが十勝!子どもの頃からずっとそう思って来たのだが、どうも近年は様子がおかしい。それが何時からかは記憶に定かではない。しかし、少なくても10年前までは正月を前に大雪なんてことは無かったように思う。あーこの調子だと何度も雪かきしなけりゃなんないかも〜

 

(2007.12.30 十勝川

 …日本国外では、9月に台湾を訪れたが、台風12号の直撃を受け、大きな収穫は無かった。唯一テツイロビロウドセセリの撮影が出来たことが大きな成果 だった。
 北海道外では、6月に神奈川県を訪れたが、これは予定外の出来事で全くの情報不足。しかし、Kさんから情報を頂いて、白いアカボシの写 真が撮れた。 またウラギンシジミ、テングチョウの開翅シーンが撮れた
のが嬉しかった。道内では、未撮影種4種のうち2種の撮影が出来た。特に撮影困難が予想されていたミヤマカラスシジミの撮影は、S氏の案内によるもので、心から感謝したい。ところで残るフジミドリシジミとウラクロシジミの2種は、道南に漠然とした情報があるのだけで、この両種の撮影には未だ数年を要するだろうと思う。

 

(2007.12.30 十勝川

 色々な意味で、2007年はツキがない年だったなぁと思います。体調も特に後半は良くありませんでした。今も右手首・左足首・腰に痛みがあり湿布をしていますが、最近の湿布はあまり臭くないのね(笑)納得・充実の一年でしたとは言えないけれど、まー最悪ではありませんし、体調が悪い割には、気力はまだまだあります。精神的にも何故か開放されています。
 だから、大丈夫!2008年、もっともっと活躍するぞと決意しながら大晦日を迎えました。そうだね〜6月の長野、7月の沖縄…出来るなら、また台湾も行きたいね〜。アハハ、相変わらず欲だけはあります。その欲と好奇心が、Fieldのエネルギーでもあります。

 そう言えば、トップのカウンタが、2008年の春先には100,000突破しそうですね〜。凄いですねー!HP始めた頃には想像も付かなかった数字ですね。これまでにご覧頂いた方に、そして、ご意見ご感想を寄せられた方、撮影ポイントをご案内頂いた方にも、心から御礼申し上げます。ありがとう!そして、また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

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