もう一つの Field Note    
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18 Mar 2008   11:51:11 pm
3代(台?)目のカメラ

 3代目のカメラは、MINOLTA α7。買ったのは1984年頃だったかなぁ。α7の特徴は目的別のメモリ・チップを差し込むことで、それぞれのシーンに最適な設定が自動化されるという機能が付いていた…なんていうと、何だかもの凄い!…気もするが、今ではどのデジカメにも付いているシーン・モードのことだ。でもその当時としては先駆的な技術だったのかも知れない。
 シャッターも電子シャッター…というと聞こえは良いのだが、電池が切れるとシャッターも落ちなのいか!と、今では当たり前のことに苛ついた。何でもかんでもマニュアルだったのが、あれもこれも自動化されるという過渡期の産物だったのだろう。一部で便利になる一方で、何でこんなことが…と思える部分で不便さも感じた。
 ピンはもちろん自動。ズームもモータードライブ。メモリ・チップを入れれば絞りもシャッタースピードも自動。これで良いのか?と疑問を感じながら、方やシャッターチャンスだけに集中できる便利さも感じながら、17年ほど使い続けた。ただ、この時代に撮った写真がFieldの写真の中で一番つまらない写真が多かったと、今になって思う。それはカメラに任せきりだったからだろう。そこそこに撮れる写真に、そこそこ満足をしてしまった結果だろうと、今更ながら反省しきりである。
 そして、デジカメの時代が到来する。以降は前章に書きちらかした通りなので、カメラの話はこれでおしまい。(写真は銀塩カメラを持っての最後の遠征となった2001年の沖縄で撮影)
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11 Mar 2008   11:58:33 pm
3代(台?)目…の前に
 2代目のカメラにまつわる思い出を少々…。結局Fieldは2年間、道立S高校新聞局のカメラマンを務めた。早くカメラに馴れるために、カメラを持たずに出歩くことは殆ど無かった。新聞用の写真ということで、カラーではなかったが、モノクロ・フィルムは部費で自由に使えた。
 ところで、カメラを持っていると、よく男子の先輩が私の周りに集まってきた。そのうちに彼等の狙いが解ってきた。“ねーねー、あの娘撮ってよ。プリントしたら、一枚貰えない?”異口同音に皆さんそう仰る。それも、一人や二人ではないのだ。“先輩の彼女ですか?”と尋ねると、“いや、そうじゃないのだけれど…”これも共通して返ってくる返事だ。“あの娘”は、どうやら体操部に所属しているらしい。レオタード姿で練習する光景を幾度か見かけて数枚写真を撮った。プリントして先輩達に配ったら、皆さんニコニコというより、もうデレデレだったかも知れない。確かに美形の顔立ちだったと記憶しているが、Fieldには興味が無く、今では顔も覚えていない。
 その彼女は卒業後間もなく、グリコのTVCMに抜擢され、女優の道へと進んだ。平淑恵…聞き覚えのある名前だから、きっと本名のままなのだろう。でもやっぱり今も顔は思い出せない(苦笑)
 もう一つ思い出がある。新聞局に入局してカメラと一緒に渡されたものがあった。腕章である。グリーン地に白抜きで、当然の事ながら“S高校新聞局”と書かれていた。これがなかなかの優れ物だった。帯広市にヤンマーのサッカーチームが来た。前章でも書いたが、Fieldはサッカー小僧だったから、何としても選手達の近くで顔を見たいと思いながら競技場に行ってみた。ヤンマーにはメキシコ・オリンピックの主力選手がいたから、会場は賑わっていた。遠巻きにロープが張られ、とても近付くことは出来そうになかった。その時一つのアイデアが浮かんだ。腕章を付けて警備員の人に“取材です。入れて下さい!”と声をかけてみた。一瞬怪訝な顔をされた。Fieldも一瞬ヤバイかなぁと思ったら、もう一人の警備係員が飛んできて“あんたかぁ、何やってるんだよ。遅いよ!”S高校(新聞局)を卒業した“目玉のK先輩(目が大きかったので、そう呼ばれていた)”が機転を利かせてくれたのだった。
 当然Fieldはロープの中へ、そして子どもの頃から憧れの釜本選手・ネルソン吉村選手達の至近距離から思う存分写真を撮らせてもらった。この手はその後幾度か有効だった。全日本の男子バレーチームが来たときにも、その手で猫田・横田・王古選手などを撮らせてもらった。
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09 Mar 2008   12:40:34 am
2代(台?)目のカメラ

 Fieldが高校時代、新聞局に入局した。特に何か思うところがあった訳でもなかったが、S先輩に勧誘され、ふらりと新聞局に立ち寄ったら、そのまま局員になってしまった。部長はTという先輩で、2年生。S先輩は3年生だが、この新聞局、3年になると現役から退くという。2年生にはもう一人N先輩がいたが、他は全て女性だった。結局新入部員も全員が女性で、Fieldにはカメラが預けられた。
 MINOLTA SRT-101、それが初めての一眼レフカメラだった。今まで重たいマミヤプレスしか使ったことのなかったFieldは邀撃を受けた。このカメラ凄い!!いったいいくらしたのか覚えてないが、小遣いをかき集めて同じ物を買った。55mm標準レンズと200mmレンズを追加した。
 仕事柄父親の会社に暗室があったので、モノクロ・フィルムを入れて試撮。モンシロチョウとシマリスを撮って自分で現像してみた。まあまあ撮れてると思って親父に見せたら“なんだ、もっと大きく写せないのか?”カチンと来た。レンズは200mmだが、マクロレンズではないから、最短撮影距離は2m以上だったと思う。さてどうする?更にレンズなど買う小遣いもなく、窮余の一策が中間リングだった。これなら1mくらいまで寄れる。しかし、200mmレンズが20cmを超えているところに10cm近い中間リングを挟むものだから、長い長い!“いったいそのレンズ、何ミリですか?”と何度尋ねられたことか。このセットで1983年までの12年間を通した。(掲載写真はSRT-101で撮影)
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06 Mar 2008   02:48:34 am
最初のカメラ

 デジタル写真というテーマで、写真の話を書くつもりだった。それがデジカメの話になり勢いがついてしまって、そのまま脱線し続けた。この章からは、Fieldとカメラの出会いを書いてみようと思う。

 1967年に父がカメラを手に入れた。マミヤプレスという、主に新聞記者などが使う馬鹿デカイ二眼レフ・カメラだった。きっと父はそれを持て余したのであろう。何と小学生の私にそれを預けたのだった。集合写真や風景を撮るなら、当時としては最高の機種だったと思う。ところがFieldが撮りたかったのは、蝶の写真であった。静物を撮るなら最高のカメラでも、動物を撮るにはあまりに不便なカメラだった。しかも、フィルム代・現像代・プリント代とお金がかかり、学生の自分としてはいろいろと試すこともままならなかった。
 中学校時代、Fieldはサッカー部に所属していた。短距離と瞬発力に自信があったから自分に相応しいスポーツだと思ったからだ。しかし間もなくメキシコ・オリンピックで日本サッカーチームが銅メダルを取り、サッカーに注目が集まった。サッカー部には生徒が大勢集まるようになった。当時からヘソの曲がっていたFieldは、サッカーを止めた。吹奏楽部や卓球部のサポートをしていたが、最後は生物クラブに入った。顧問は酵母菌の研究を奨めたが、それを断って1期後輩に任せた。2期後輩に蝶に興味を持っている奴がいたので、彼と本格的に蝶の生態研究を始めた。キアゲハを飼育しながら観察日記を書きスケッチをしたが、何か物足りなさを感じた。何だか説得力が足りないと思った。
 そこで、マミヤプレスを持ち出した。飛び回る蝶の写真を撮るのは難しかったが、幼虫や蛹を撮ることは出来た。その写真を持ち込んで、中学校科学連盟の大会に望んだ。当時生物クラブの部長になっていたが、過去の戦績を聞いて驚いた。Fieldの在籍していた帯広第六中学校は過去10年間最優秀賞だという。六中は開校10年だから、開校以来トップを取り続けていることになる。正直ヤバイと思った!
 各校の研究発表があり、その後の表彰式に望んだ。第六中学校のキアゲハの生態研究は最優秀賞だった。後輩の酵母菌の研究が次点だった。パーフェクトだ!Fieldの出品した昆虫標本が特別賞のオマケも付いた。表彰式の後の総評で、過去に論文・スケッチの提出はあったが、生態写真を付しての発表は初めてのことで、それが高い評価を受けたことを知った。その時の写真の1枚がこの写真で1969年撮影である。
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24 Feb 2008   11:58:33 pm
デジタル写真 その4

 銀塩フィルムの時代には、フィルム1本撮り切るのに躊躇があった。36枚撮りだと、現像がいつになるか分からないので、経済効率も考えて、24枚撮りを使った。それでもフィルム代・現像代・プリント代で2,000円ほどかかった。中学・高校時代、その2,000円は痛かった。そんな貧乏性の癖が抜けきらずにいた。それが、一気に開放された気分になった。
 プロが50枚シャッターを切るなら、アマチュアは100枚、200枚撮らなければと実感していた。それが実現できることを歓んだ。そんな時に更に写真に対する考えを変化させる出会いがあった。イタリア人のカメラマン、ルチアーノだ。彼に珍しい蝶の写真を見せた。しかし、彼には蝶の知識は全く無い。反応は冷ややかだった。蝶マニアなら、うわっ、凄いと言って貰えたことだろう。そのことが、火に油を注いだ。彼を唸らせる写真を撮ってやるっ!写っている対象物の希少性だけではなく、1枚の写真として観賞に耐えうる写真を撮りたいと思い始めた。
 それまでの写真は対象物を画面一杯に、そしてそれにピンが合っていれば、そこそこ満足していた。でもFieldが撮っていたのは、商品写真・カタログ写真の類だった。そこから脱却すべく撮りまくった。そしてすぐに同じ写真を何枚も撮ることに意味がないと気付き、設定を変え、アングルを変えながら撮るようになった。いつしか蝶の生態を記録する為の“手段”としての写真撮影だったのに、撮影そのものが“目的”に変わっていった。
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